「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。嫌いな人は、悪い人と評価しがちです。嫌いだから、ネガティブに見るだけでは? というのも真実ですが、実はその過程には、少々、複雑な行程があります。
嫌いという感情に翻弄されず、より正気に、より理性的に生きるための記事です。よろしくお願いします。
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リアルもネットも、噂話や誹謗中傷に溢れている
人が人を嫌いになるのは、簡単です。許されざる悪人、限度を超えた侮辱をされる、パワハラやセクハラの被害に遭う、といった決定打がなくとも、なぜか嫌いになれます。タレントに付くアンチファンは、まさにその典型です。
春風ちゃんこと、春名風花さんはネット上での長年に渡る誹謗中傷によって、仕事に多大な悪影響を及ぼしたと言います。それでSNSを休止したところ、友人のアカウントに付きまとう人が現れるなどしたため、戻ってきたそうです。春風ちゃんでなくても、ある程度以上に有名になれば、ほぼ確実にアンチも存在します。
本が売れた時に、僕にも大量のアンチが発生しました。見ず知らずの人たちから受ける人格否定の嵐は、それはもう凄まじいものです。匿名で顔も出さず、剥き出しの悪意をぶつけられた当時の僕は、正直、かなり面食らいました。ただネットニュースで本が紹介された記事を読んだだけの知識で、その著者への憎悪を燃え上がらせる。正直、意味が解りませんでした。
当時の2chでも、僕が話題になりました。そこでも、ああだこうだと悪く書かれ、参加者同士で盛り上がっています。酷い出鱈目が既成事実となり、それを土台にして、また新しい出鱈目がお披露目され、既成事実となり…… の繰り返しです。
僕の基本的な人間性は、純粋で、のほほんとしたお人好しです。それが出鱈目が出鱈目を呼んで、人を騙して儲けようとする計算高い悪辣な人間に仕立て上げられていました。
嫌いになると、憎悪したくなる
通常、嫌いになる対象は、自分にとって好ましくない存在です。自分を馬鹿にする、意地悪をする、粘着する、不利益を被らせる、醜い、気持ち悪い、倫理道徳的に許せない、嫉妬してしまう、何かで負けた、などです。
嫌いという感情は、持つだけで苦痛になります。そしてその苦痛が付与されて、憎悪へと進化します。嫌悪の苦痛がカウントされると、嫌いな相手は加害者、嫌っている自分は被害者という位置づけになるからです。
憎悪に進化させるには、正当性が必要です。相手が自分に対して、明らかに悪ければ、正当性には困りません。意地悪や悪意をもって不利益を被らせた者に、憎悪を向けるのは簡単です。何のハードルも存在しません。しかし嫌いな相手に善悪での落ち度がなければ、憎悪は足止めをされます。理性が「憎悪を向けるべきではない」と、承認を拒むからです。
憎悪したくなると、悪者にしたくなる
憎悪したいけれど、憎悪できない。このギャップを埋めるには、どうすれば良いでしょうか? そうです。相手を、憎悪するに足る、悪者にすれば良いのです。
人には、高い知能があり、考える力があります。同じ材料であっても、どこに重きを置くか、逆にどこを軽視するか、によって解釈を変えられます。更には、それを足掛かりにして想像を広げていけば、あらゆる解釈も自由自在です。
僕の場合には、ただ本を出版したというだけで、「汚い金儲け主義者」という解釈をされました。理屈としておかしいのは当然ですが、この場合には、その人個人の中で真実であれば条件を満たします。
春風ちゃんは、訴訟を起こしたことに対して「売名行為」と中傷されました。おそらくそのアンチにとって、春風ちゃんは薄汚い人間であってくれた方が、都合が良いのです。
無事に悪者に仕立て上げられたなら、あとはその度合いに応じて、憎悪を向けられます。他にも、自分は被害者だから仕返しする権利がある、これは正義の行いだ、といった要素が加わったなら、理性はより大きな憎悪にも承認を与えます。
嫌いな人を、無理に好きにならなくても良い
嫌いなまま、弁護士になろう
理性が憎悪を許した姿は、醜悪なものです。嫌いに、正当性は不要です。嫌いなものは嫌いで、仕方ありません。重要なのは、嫌いという感情に流されて、不条理を生み出さないことです。
相手を悪く見始めたなら、その逆も考えるようにしてください。知能の高さは、逆にもその力を発揮できます。相手の弁護士にもなって、誤った決めつけを正すのです。無理に良く見ようとするのではなく、理不尽に悪く決めつけるのを避け、保留をしておくだけです。解らないものへの正しい判断は、「解らない」という位置づけです。
ニュートラルになっておけば、偏見を回避できます。ただ心象というものがあるので、完全にはなくせません。しかし憎悪を野放しにしているよりは、遥かにマシな判断ができる状態です。
嫌悪に理性を乗っ取られるのも、回避して正気を保つも、自分次第です。
まとめ
嫌悪感は、それ自体が苦痛です。苦痛は被害者意識をもたらし、嫌いの対象は加害者と位置付けられます。それが憎悪を生み出します。ただし相手に善悪での落ち度がない場合、憎悪を向ける正当性がありません。
そこでそのギャップを埋めるために、相手を悪者にします。この誘惑に負けて狂い、不条理な存在になるのか。あるいは理性で歯止めをかけるのかは、自分次第です。自分で、自分がどう在りたいか、に拠ります。
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