「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。原始的な自尊心という言葉には、馴染みがないと思います。なぜなら僕がこの記事を書くために作った、新しい表現だからです。
人はどこまで行っても、動物の延長線上にあります。そこに限界はありますが、人だからこそ獲得できる姿もあります。
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マウンティングは、原始的な自尊心から成る
マウンティングとは何か?
ここ最近、マウンティングという言葉がすっかり定着したように思えます。職場、学校、サークル、地域社会、SNS、どこにでも、人の上に優位に立ちたい人が必ずいます。
猿は群れを形成して、集団生活をしています。そこでは序列による秩序が必須であり、上の者が下の者を従わせます。相手の背に覆いかぶさるようにして、自分の方が上だと誇示する。これが、マウンティングです。
集団生活の中で、序列のどこにいるのかは、個々にとって重要な問題です。自分本位で楽しく生きていけるのか、そのシワ寄せを強いられて生きていくのか、では、まったく違う生活です。
このような序列社会が、他者に上に立つ自尊心、下にいる者の卑屈さなどを形成してきました。進化をしてホモサピエンスとなり、文明が発達した現代社会であっても、その感覚は捨てきれません。
人はマウンティングに成功すると、誇らしさと共に安心感を得ます。マウンティングされた側には、敗北感と劣等感が生じます。しかしその上下関係を受け入れると、今度は逆に安心感も出てきます。強い群れの勢力の一員であるのは、弱い個体にとっては、立派な生存戦略だからです。
自尊心の大元には、上下関係がある
人は何かを認識する時、他のものとの対比を利用します。食べた物の味を濃いと思うのは、より薄いものを知っているからです。この人は優しいと思うのは、より冷たい人を知っているからです。違いがあるからこそ、認識も出来ます。
自尊心という立派な概念であっても、決して例外にはなりません。自分を尊いと評価するには、より卑しい人が必要です。卑しいものがあるから、尊い存在が認識されるからです。
原始的な自尊心は、ホモサピエンスの習性です。ここから完全に、逃れられる術はありません。
多くの人達が、自尊心に飢えている
上下関係は、ピラミッド型のヒエラルヒーになるのが一般的です。一部の上層部に、その他大勢という構図です。
社会全体でのステータス、組織内の役職、人間関係上での自然発生的な上下関係、など、どのようなカテゴリーであっても、自尊心を満足させられる人は一部です。多くの人達は、自尊心に飢えています。少しでも自尊心を満たそうと、つまらないマウンティングをする、身近な弱い人を虐げる、SNSで批判や罵詈雑言に明け暮れる、客の立場を利用して威張る、といった手段が行われます。自分も誰かを見下して、かりそめでも良いから勝利者になりたいし、安心したいのです。
誰が見ても腰の低い、謙虚な人格者がいたとします。本人も、それが自分の人間性だと疑っていません。しかし何かで突然、大金が入る、成功してステータスが手に入る、といった状況の様変わりがあると、人格を崩してしまうのは珍しくありません。
謙虚で穏やかだったはずが、傲慢な鼻持ちならない人になってしまう。自尊心に飢えていた分、凄まじい反動が起こります。他人を見下す側になって、鬱憤を晴らそうとします。
その謙虚さは、劣等感とセットでした。諦めて負けを認めることで、意気消沈して大人しくなっていただけの話です。もしも改めて謙虚さを手に入れようと思ったなら、劣等感とは別の根拠が必要になります。その道は、劣等感で意気消沈するほどには、簡単ではありません。
理性によって得られる、よりランクの高い自尊心
武士道、騎士道、などに活路あり!
原始的な自尊心から逃れる術はない、と断言しました。じゃあ、どうしようもないのか? と虚しくなった方もおられるでしょう。確かに、人に元から備わっている習性は消せません。しかしより優位なものによって、相対的に小さくは出来ます。
例えば僕は、浮気や女遊びをしません。一人で北海道のススキノで泊まった時も、そのようなお店にまったく関心を持たなかった程です。結婚して子供もおりますので、普通に男性としての性欲はあります。しかし性的に潔癖なので、結果として遊ばない男性になっています。相対的に性欲の方が小さくなり、まるで違う姿になっているという訳です。決して真面目だからではなく、単純に興味がないから、嫌だから、という理由です。
武士道、騎士道と聞いて、何をイメージするでしょうか? 正義、義理人情、高尚な人格者といったあたりを思い浮かべるのが、一般的だと思います。彼らは決して驕り高ぶらず、相手を見て尊大になったり卑屈になったりと、態度を変えません。このような人間性には、誰もが魅力を感じるはずです。かなり古い話ですが、ベルサイユの薔薇のオスカルが嫌いだという人を、僕は一人も知りません。
弱い人間は、自らを律せられません。ほどほどに欲にまみれ、原始的な自尊心に翻弄されながら生きて行く方が楽です。武士道や騎士道を支えるのは、美学です。正しい以前に、美しいから価値があります。美学は、楽な道からは生まれません。あえて厳しい道を進んだ時に、心を鼓舞するため、守るために美が生み出されるのです。人にとって、美には最高の価値があります。
原始的な自尊心はそのままでも、より上位にある美学を採用したなら、人は美を優先させたくなります。尊敬を集める人格者のほとんどは、この美に人格が支えられています。武士道や騎士道は、あくまでもその方向性の一例です。善と美とが結びついた人間性への自己評価こそ、人が人として獲得できる、先の次元の自尊心です。
まとめ
原始的な自尊心とは、他人を見下す上下関係にあります。これは人にある習性なので、逃れようがありません。
しかし人には、美学があります。善と美が結びついた先に、より次元の高い自尊心に生きる道があります。
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