「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。体罰が是か非かという議論は、未だに根強くあります。「きちんとした人間に育てるには、体罰は必要だ」という意見も、度々、目にします。
しかし体罰は洗脳と同じで、より良く成長させる上での意味はありません。ただ暴力で服従させて、表面上の形を整えているだけです。その歪みは、人格形成上に影を落とします。
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体罰の本質とは、洗脳である
暴力で服従させる
体罰は人を話の通じない、動物のように扱う行為です。
やってはいけない事 / やらなくてはいけない事 ←→ 身体の痛み
この二つを結び付けて、「痛い思いをしたくなければ、従順でいなさい」と思い込ませるのです。
つまり暴力によって、強制的に服従させています。背景には、圧倒的な体力の差、立場・権力の差、などが必須です。
強い側の精神に何らかの問題があったなら、その暴力は適切な教育の範疇をいとも容易く踏み出してしまいます。
洗脳の要素を含む
暴力によって屈服させられた心は狂います。思考が停止してしまうのです。するとその人は、以後、同じような状況になると思考を停止させて危険を回避しようとします。
これは人としての在り方ではありません。人は理性と知性によって主体的に物事を決定するから、人らしくあるのです。体罰はそんな人らしさを失わせ、
痛み → 反応
というスイッチを取り付ける作業でしかないのです。これは躾でも教育でもなく、一種の洗脳です。
洗脳と言うと、カルト宗教やネットワークビジネス、共産主義団体などを連想する人が多いと思います。共産主義団体をイメージする人は、上の世代の方でしょうか。
東京キリスト教の教会(TCC)から受けた洗脳体験
僕は以前、東京キリストの教会(TCC)の構成員から、洗脳プログラムを受けた経験があります。今は穏健になっているらしいですが、その当時はカルト集団として、軽く社会問題にもなっていました。
キリスト教の設定を、簡単に説明します。神は人間を自分に似せて作りましたが、自由意志を持たせたばかりに、人間は神を裏切ってしまいます。原罪を背負った人類に、神は救いの手を差し伸べ続けますが、改心して神の元に戻る様子はありません。そこでイエスを遣わし、十字架にかけられて処刑された事実をもって、代わりに罪を償ったことにしてあげました。
イエスの救いを受け入れた者(キリスト教を信じた者)だけは、天国に行ける。そうでない者は、地獄の業火で永遠に焼かれ続ける。
キリスト教にも、宗派によって様々な立場があります。同じ宗派でも、時代によって解釈が異なります。近頃は全体として穏健化してきていて、イエスの救いを受け入れていない立場の人間であっても、人格者であれば天国に行けるといった解釈も出てきました。(旧約聖書にある、偶像礼拝(異宗教)というだけで容赦なく攻め滅ぼす神様と、とても同一人物とは思えませんが……)
TCCは聖書原理主義の要素が強く、神の裁きも前面に押し出しています。僕を洗脳にあたった中堅幹部のY君は、明確に「イエスを受け入れていない者は、どんな人格者であっても地獄に堕ちる。出合うチャンスがあったとか、なかったとかは関係ない。残念賞!」と言っていました。
僕はY君から洗脳プログラムを受けたわけですが、友好関係を結んで心を開かせておいて、いきなり心を砕きに来られました。「醜い罪人だ!」と罵られた挙句に、「……でもそんな貴方を、イエス様、神様は愛しているのです」と手を差し伸べてきました。
洗脳とはこのように、冷静な判断能力、理性を失わせた隙間に、都合の良いものを刷り込む手法です。TCCのエピソードが詳し過ぎるようにも思えますが、知っておいて良い大切な情報なので、良いですかね。
暴力によって、失われる理性
体罰は従順さを手に入れる代償として、その人の精神から知性の支配する領域を犠牲にしています。
この洗脳は大きくなれば解けるというものではなく、何か切っ掛けがなければ、一生のものとして続きます。
仮に体罰が功を奏して、思い通りにコントロールできたとしましょう。しかしその姿は、身の安全を守るパターンとして学習しただけの話で、思考によって合理的に得られた結論とは違います。
人間としての成長には、やや物足りない姿です。
屈服は自尊心を傷つけられ、反発は攻撃性を招く
またその痛みによって屈服させられた心は、自尊心を傷つけられています。そのまま屈服すれば自己評価の低い人間になり、反発すれば攻撃的な人間になります。
逸脱した親から酷い体罰を受けている子供が、親には従順な姿を演じながら、弱い者には屈折した攻撃性を見せるのは、典型的な姿でしょう。僕も子供の頃、そういった屈折した子を何人も見てきました。
いじめをする子の背景には、こうした自尊心にまつわる問題があります。全員とは言いませんが、過剰に屈服させられた心が自尊心を回復させようと、弱い者に牙を剥いてしまうのです。
体罰が教育に良い根拠は、どこにも見当たりません。
許される体罰
厳密に言えば体罰ではないのですが、あらゆる全ての暴力が否定されるわけではありません。
散った注意を向けさせる意味での、軽く叩くくらいのことであれば、これといった危険性もありません。
叩かれる → 危険を感じる → 意識が集中する → 教育を行う
という段取りは、有効に働く場合も多いです。屈服させるほどの暴力でなければ、洗脳の要素もありません。理性を保ったまま、教育された内容を考えられるからです。
まとめ
体罰は、洗脳手法の一種です。それはDV被害に遭っている妻が、夫に精神的に依存させられている姿からも伺い知れます。
自分で思考せずに刷り込まれたものは、「なぜ、それが正しいのか?」「なぜ、それが間違っているのか?」を検証した課程がありません。人として成長させるには、この過程こそに意味があります。
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