「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。タレントや有名人が善行をすると、必ず付いてくるのがバッシングです。偽善だ、売名行為だと、容赦のない人格否定が吹き荒れます。
また一般の人に対しても、熱心にボランティア活動をしている人を、やはり自己満足だ、良いことをしている自分が好きなだけだ、と悪く言う人達がいます。
このような貧しい精神性は、どのように形成されるのか? 抜け出し方と合わせて、お伝えしていきます。
善意、善行はなぜバッシングされるのか?
偽善、売名行為という中傷
タレント、事業家、政治家などにとって、人気や評判は重要です。これを上げるために、寄付、慈善事業、ボランティアなどを行ったとしても、まったく不思議ではありません。……と言いますか、実際に打算のある人も多いでしょう。
だからこそ、世間の見る目が厳しくなるのは、当然と言えば当然です。しかし偽善や売名行為と、決まっている訳でもありません。人の心の中は、本人にしか解りません。
純粋な善意を信じ切れないというなら、仕方ありません。実際のところは、解らないのですから。しかしだからと言って、偽善、売名行為、と決めつけるのも違います。他人の心を覗けない以上は、誰もその意図を決めつけられません。
にも関わらず、ネット上では、善意や善行に対してバッシングの嵐が吹き荒れます。内心の意図はともかく、行動としては良い事をしているのに、人格否定の誹謗中傷が起こるのです。
何もしていない負い目
大多数の人は、大きな善行をしていません。極端に良い人でも悪い人でもなく、ただ普通に暮らしています。当然、自己評価もそれに倣います。
するとやはり、若干なりとも負い目はあるものです。世界の貧困層、被災者が困っているのを知りながら、何かをする訳ではない。するとしても、ちょっとした募金くらいで、痛いとは思わない範囲に留まる。
遊びに行く、飲みに行く、嗜好品を買う、高い化粧品を買う、などの支出をして、本当に極限のところで困っている人に、手を差し伸べていない。休日も自分のために過ごして、ボランティア活動にも参加しない。
といった自分と対比して、大きな善行をしている人を前にすると、引け目を感じてしまうのです。自分が間違った、卑しい存在のように思えてきて、嫌な気分になります。
そこで嫌な気分を解消しようと思ったなら、通常、方向性は二つしかありません。自分も同じように善行をするか、善行をしている人を卑俗な存在に下げるか、です。誹謗中傷を繰り広げる人達は、後者を選んでいます。
「天使のような良い人など、いるはずはない」という思い込み
人は、自分の器の範囲でしか、他人を測れません。普通の人には、多大な金銭、時間、労力などを、自分や家族以外に費やせる感覚を理解できません。あるいはそれらを費やすことを、負担や犠牲と思わない感覚を理解できません。
少しでも狡猾さを持ち合わせているなら、それが利己心から来る打算というなら、理解できます。タレントが多額の寄付をしたとして、それがイメージアップに繋がり、より大きな収入となって返ってくるなら、まったく損をしません。
自分の楽しみや満足のために動くのは、ほとんどの人にとって当たり前です。しかし見ず知らずの人の為に多大な何かを支払うとなると、理解できない人もいます。こういう人にとって、「ボランティア活動は、自己満足である」は腑に落ちるのです。
貧しい精神性から、抜け出すには?
他人の善意と善行を承認できず、誹謗中傷してしまう心情には、
・卑俗な自分を正当化したい
・あまりに自分からかけ離れた人間性は、理解できない
という、2点の背景があると解りました。ではそのような貧しい精神性は、どうにもならないのでしょうか?
いえ、卑しさは、苦痛を回避する方法を誤った結果に過ぎません。そこに至る経路の何れかにアプローチすれば、人が卑しく堕ちていくループから外れられます。
偽善であっても、善は善
まず、偽善であって欲しいという願望への未練を、断ち切りましょう。それは、売名行為かもしれません。身勝手な、自己満足なのかもしれません。けれども正解は、他人には計り知れません。
解らない以上、そうであって欲しいという願望が、完全に満たされる機会は訪れません。絶対に叶わないものへの適切な対応は、「諦める」という一点のみです。
それに人間というものは、完全な悪人にも、一切の感情が通わないロボットにもなれません。人気を上げるための打算が切っ掛けだったとしても、それで助かった人の存在、自分に向けられた純粋な感謝に当てられれば、何かを感じるものです。
また多くの人の心には、真心もあれば、打算的なところもあります。良いことをして自分の利益にもなれば、一石二鳥という考えも、あって当然です。そもそも真心の良心か、心ない打算か、などという見方はピントが外れています。真心の良心も、打算も、双方が真実です。
純粋な真心での善でなくとも、結果として善行をしているなら、それはやはり善です。逆に純粋な真心のみで何も行動を起こさないのであれば、それで助けられる存在はありません。
「やらない善より、やる偽善」
と、誰かが言い始めて有名になった言葉があります。善意の純度などという観点は、宗教家の自己研鑽にでも任せておけば良い。つべこべ言っていないで、有益な行動を起こした事実を称賛すれば良いのです。
プチ良い人、普通の良い人になってみよう
だからと言って、自分が同じように、多大な時間、労力、金銭を費やした善行を始められる道理はありません。そうすべき、という話でもありません。
ですから負担の少ない範囲で、プチ善行を積んでみては如何でしょうか? 何かを落としたのを目撃したなら、拾って渡してあげる。道を塞ぐように倒れている自転車を、起こして端に止めておく。大雨が降り始めて外の商品が濡れているのを、店内の人に教えてあげる。など、いくらでも機会はあります。
もっと基本的なところで、挨拶をする、お礼をする、から始めても良いでしょう。
すると、どうでしょう? 心の中に、何かが芽生えるのが解ると思います。
まずは、仕事に誠実になろう
寄付、ボランティア活動などの特別な善行は、実はオマケのようなものです。それらは、自分が果たすべき役割ではありません。
人間社会は、役割分担によって成り立っています。ビジネスは、時として競争によってその本質を見失いがちですが、全ては役割分担という範囲内での話です。住む家があって、電気・ガス・水道などが使えて、電車や車などの移動手段があって、娯楽があって、という僕たちの生活は、誰かの仕事の上に成り立っています。
世のため、人のため、と言うならば、まずは自分が担当している役割を、誠実に果たすことです。これだけで、もう立派な善行になります。
到底、そんな気にはなれないなら、打算で結構です。誠実な仕事ぶりは、評価の向上、失業リスクを下げる、収入を上げる、という実益にも繋がります。
家事であっても、話は同じです。その役割は、世界を相手にする大規模なものであっても、一家庭の中であっても、本質に変わりはありません。
自身の役割を、きちんと誠実に果たしている姿は、必ず自己評価を上げます。
「受けるよりも、与えるほうが幸いである」の真実
キリスト教の聖書には、「受けるよりも、与えるほうが幸いである」という有名な言葉があります。
プレゼントをもらった時、渡した時を思い返してみてください。価値ある物をもらった時は、それは普通に嬉しかったでしょう。しかし誰か大切な人にプレゼントをする時、何にしようかと考える、渡して喜んでもらった、という経験の方が、心は満たされていませんか?
この場合、理屈などどうでも良い話で、人間の心というものは、元来、そのように出来ているのです。わざわざ穿(うが)った見方をするなら、自己満足です。
しかし、そもそも自己満足という難癖には意味がありません。自分の喜びや幸せに繋がる以上は、どこまで行っても自己満足です。普通に、「他人の喜びや幸福への貢献を喜べるメンタリティーは、素晴らしい」という結論にしかなりません。
「受けるよりも、与えるほうが幸いである」は、多くの人を動かし、気付きをもたらした実績があります。そこには、人としての普遍的な性質があります。
自己評価のアップデート
・自分なりに、善行をしている
・与える者の喜びを知っている
この二点の条件さえ揃っていれば、他人の善意や善行にケチをつけざるを得ない心境からは、既に脱しています。
自分は自分なりに、行動しています。進んで善行をする人の気持ちも、理解できます。行動の規模、心意気に差はありますが、彼らは志を同じくする仲間になります。仲間の中の、尊敬できるスゲー奴! です。
自己評価がアップデートされれば、卑屈さから抜け出し、住む世界も変わります。
まとめ
他人の善意や善行を認められず、ケチを付けたくなるのは、対比した自分を卑しく感じてしまうからです。彼らが打算で動く卑しいメンタリティーであってくれれば、自分を惨めに思わなくて済みます。
これは、苦痛から自分の心を守ろうとする術です。しかし他人を穿(うが)った目で見る方法では、自身の心はより荒みます。賢明な手段とは評価できません。
心から出発しなくても大丈夫なので、負担の小さい良いことを積み重ねてみましょう。自身の役割を、打算で構わないので、誠実に果たしましょう。心の変化と気付きは、後から付いてきます。
気付けば、他人の善意や善行への見方も変わっているでしょう。
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