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「優しさ・親切 ←→ 感謝」というノーコストな交換
社会の本質は、キレイ事ではなく助け合い
人間はなぜ、社会を形成するのでしょうか? 答えは簡単で、助け合うためです。
これはキレイ事ではなく、むしろ社会の本質です。人が一人で生き抜いていくのは、至難の業。衣食住の全てを自力でこなし、体調不良やケガなどのアクシデントも自力で乗り越えなければならない。この過酷さを想像すれば、社会はより有利により良く生きるためのシステムだと知れます。
仕事・ビジネスは、この助け合いをお金を仲介させてシステム化したもの。他人に利益を与えた報酬として、自分が利益を受ける権利を得ます。他人に役立とうとする意識など皆無で、ただお金が欲しいという動機であっても、助け合いの一役を担える優れたシステムです。
一方、そのような利益など求めず、純粋に他人に利益をもたらす行動もあります。優しさ・親切、あるいは社会の一員としての義務感という人もあるでしょうが、それも親切の内でしょう。
優しさ・親切の報酬は、行動によってもたらされる相手の利益そのものです。利益になること、喜んでもらえること、それ自体が報酬です。そこに加わる感謝は、報酬に上乗せされるチップのような存在です。
「優しさ・親切 ←→ 感謝」は、コストのかからない交換です。
優しさ・親切は、社会の潤滑油
優しさ・親切は、あらゆる場面で社会を機能させてくれます。日常的に家族や知人の間で助け合いが行われ、外でたまたま出合った困っている人が助けられます。時として大災害などでは、それが大きな力を結集します。
また損得をベースにして動く仕事・ビジネスの世界でも、優しさ・親切は重要な役割を担っています。損得勘定を抜きにした誠意、相手を思いやる気持ちが、仕事をより丁寧に質を上げてくれます。
感謝を拒絶する誤り
伊是名夏子さんの乗車拒否問題
車椅子生活を送る伊是名夏子さんがJRに乗車拒否をされたと主張し、ネット上で彼女への大バッシングが展開されました。無人駅で車椅子を人力で運ぶようJR職員に要請をし、ひと悶着はあったものの、最終的にJR側はそれに応じました。これを乗車拒否とし、JRの問題として告発した記事が多くの人の反感を招いたのです。
もしも彼女が対応してくれたJRと職員に感謝を示した上で、社会をより良くする提言として改善を求めたのなら、そのバッシングは起こらなかったでしょう。サービスを受けて当たり前、自分にはその権利がある、という姿勢では多くの共感は得られません。
一部には、「何故、健常者が当たり前に出来ていることを、障害者だからと特別なお願いをして、感謝を強いられなければならないのか?」という声も上がりました。伊是名さん本人も、同様の論調です。
しかしこれは、一般的な日本社会の感覚とはかけ離れています。やってもらって当たり前のことでも、感謝をして敬意を示すのが常識であり良識になっています。感謝を強制するのも間違いかもしれませんが、「感謝など必要ない!」と強硬な姿勢に出るなら、相応の軽蔑は免れません。
ただ反発されて批判されて当たり前とは言え、伊是名さんへのバッシングは明らかに行き過ぎです。
「優しさ・親切 ←→ 感謝」の拒否は、社会の本質を否定する
ここ数年、感謝を拒絶する人物が目立っています。お店で代金を払っているのに、「ありがとう」と言うのはおかしい。給食代を払っているのだから、「いただきます」を強制しないで欲しい。障害者を助けるのは社会の責任なのだから、いちいち感謝をする必要はない。……といった論調を、多く目にします。
このように主張する人たちは、社会は義務と権利のみで動く無機質なものであり、優しさや親切心などは不要と考えているのでしょう。もしくは権利意識がこじれて、他人を蔑ろにして構わない特権意識に変質しています。
当然の権利なのだから感謝したくない。自分は可哀想な被害者で、ちょっとばかり何かしてもらったくらいでは埋め合わせにならず、感謝する気になれない。……といった意識のもと、「感謝をしたら損だ」という感覚にあります。本来、ノーコストであるはずの感謝にコストを感じて、支払いたくないと意固地になっているのです。
感謝を閉ざして、「優しさ・親切 ←→ 感謝」の交換を拒否すれば、優しさ・親切も途絶えます。ノーコストの交換を拒否された結果、優しさ・親切を仇で返される感覚になるからです。
感謝不要論を主張する人は、このサイクルを途切れさせる意味を、今一度よく考えてみてください。
まとめ
「優しさ・親切 ←→ 感謝」は、社会の本質である助け合いを円滑にする潤滑油である。これを歪んだ権利意識や被害者意識で拒否すれば、サイクルが途絶えて優しさ・親切も失われてしまう。
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