「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。いじめ問題ではよく、いじめに加担したわけではない傍観者も、同罪だと言われます。さすがに同罪は言い過ぎですが、傍観者はただ、中立的な立場でそこに居ただけでしょうか?
実は傍観者の多くは、積極的にいじめ行為には加担しないものの、その状況を支持して許容する消極的な加害者になっているのです。
今回の記事は、傍観者が消極的な加害者に変わっていく心理構造をお伝えします。
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傍観者が、消極的な加害者になっていく心理構造
粗末に扱われているものは、粗末な価値になる
人は何かの価値を決める際に、他人がどう思っているのかに誘導されます。何らかの基準で価値を判定する部分もありますが、多くの場面で、ただ周囲に流されて追認します。
だから高級ブランドは、目利きのできない素人でも、高い価値があると認定しています。素材、デザイン、技術の良し悪しなどが解らなくても、ただ高級ブランド品というだけで、価値ある優れた物として尊重します。
逆に悪く評価されるもの、バカにされるものにも、同じ現象が起こります。価値がないと粗末に扱われていると、多くの人はそのまま価値のなさを受け入れて、同じように粗末に扱うようになります。
いじめの被害者は、粗末に扱われている人
学校でも、職場でも、家庭でも、いじめの被害者は、例外なく粗末に扱われています。その様子を繰り返し見させられた周囲の人たちは、自然といじめ被害者を「価値のない存在」と思うようになります。
人間性に問題があるから、性格が悪いからそうなる訳ではなく、半ば無意識にそう刷り込まれていく為です。
すると次第に、いじめ被害者を粗末に扱っても構わない、価値のない存在だという認識が広まっていきます。そう思う人が増えていく程、刷り込みも濃くなっていく悪循環になります。
可哀想、悲惨、罪悪感、自己嫌悪などは、理性を弱めてしまう
肉体的であっても、精神的であっても、いじめの現場は陰惨なものです。酷ければ酷いほど、まともな神経では見ていられません。可哀想だと思うほど、悲惨だと感じるほど、傍観者は理性を弱めます。
理性とは、区別する能力です。A、B、Cという複数の要素を見て、A、B、Cのそれぞれを別個のものとして認識する力を、理性と呼びます。「理性的な人物」と表現した時、一般的には正しい心を持った人格者をイメージすると思います。これは正確には、善悪を見極め、善を選択できる人物を表現しています。
精神的な衝撃と苦痛を受けた時、人は理性を保てなくなります。心を守るために、あるいは受け止められる許容量を超えて精神がぼやかされ、区別する能力を失うのです。ここで刷り込まれたパターンは、以降、理性から外れた形で心を反応させます。
一般的に言うトラウマは、この原理で作られます。火事で怖い目に遭った人が、以降、ガスコンロやライターの火、火を連想させる赤色に至るまで、心が拒絶反応を起こしてしまうようなケースです。火事現場の命を危機に陥らせるレベルの火と、安全で管理下に置かれている火、赤い色、などの区別がつかなくなって、全てに脅威を感じて恐怖してしまうようになっています。A、B、Cの要素がごちゃ混ぜになり、区別がつけられていない状態です。
いじめの現場に遭遇した人は、このような形で理性を弱められた状態で、「被害者は粗末に扱っても構わない、価値のない人間だ」という認識を刷り込まれます。すると以降は理屈を抜きにして、心が勝手に「この人には価値がない」と反応し、いじめ行為を許容するようになります。善悪を見極め、善を選択する能力が部分的に麻痺させられています。
また、怖くて被害者を助けられない自分に、正常な人であれば罪悪感を持ち、自己嫌悪にも陥ります。しかしこの精神的な苦痛が、同じように理性を弱める原因にもなり得ます。
傍観者が、加害者になる
いじめには、いじめの魅力があります。誰かを虐げれば、優越感に浸れます。集団での人間関係で上位に入れば、安心感があります。スケープゴートを作れば、そこに負の感情のはけ口を集中させ、集団の人間関係を安定させられます。負の感情を発散させた人は、鬱憤を発散できます。
傍観者であった人も、そうした何らかの欲求に引きずられる形で、加害者に回ります。
また被害者と同じカテゴリーに入れられてしまっては大変なので、いじめる加害者側になり、立場を安定させようとする人もいます。こうした人の中には、積極的にいじめ行為に加わる者と、行為には加わらないが「価値が低い」、「嫌い」という立場を明確にする者とがいます。
このようにして、傍観者は積極的な加害者になるか、消極的な加害者へと変貌していくのです。
いじめが常態化して放置されている状況は、後者のような、多くの消極的な加害者によって支えられています。
傍観者の立場で、いじめ問題を解決するには?
傍観者が傍観者である理由
傍観者が傍観者であるのは、単純に弱いからです。弱い人間が集団で上手くやっていくためには、強者への迎合が必要になります。強者が間違っていた場合、その間違いを受け入れて許容しなければ、弱者はやっていけません。
もしも自分が強者の立場であり、真っ当な人間性を持ち合わせているなら、いじめの常態化など許さないでしょう。
弱者が理性を弱らされ、被害者には価値がないと刷り込まれ、間違った強者と同じ色に染められていきます。色濃く染められた者は積極的な加害者になり、薄く染められた者は消極的な加害者になります。
稀にいる理性を弱められない、染められない弱者は、何もできない自分への罪悪感に苦しみます。
誤解をして欲しくないのは、強者に表立って逆らない弱さは、悪ではありません。集団内でトップにいる強者に弱者が単独で立ち向かえば、返り討ちにされるのが目に見えています。集団の存続と秩序(誤ったバランスであっても)を大切にする人たちが、揃って敵に回りかねません。これを覚悟して戦う勇敢さは称賛されるべきですが、戦わないからと、それをもって悪とは見なせません。
集団からの逃亡を勧める
いじめ問題を解決する、もっとも手っ取り早い手段は、その集団からの逃亡です。学校なり、職場なり、私的な交友関係なり、鎖に縛られて拘束されている訳ではありません。個々にそれぞれの事情はありますが、その気になるなら、いつでも抜け出せます。
精神を病ませる、自殺を選択する、まで追い込まれてしまうなら、それ以上に優先すべき事情など、何もありません。
自分は集団の中で、加害者を止められるような影響力はない。だから貴方は、この場から去るべきだ。と伝えて、逃亡を打診してみましょう。
より上位の力に頼る
加害者よりも上の立場にいる人、教師、教育委員会、警察など、より上位の力に頼ります。いじめの加害者は、力関係で弱い人間を標的にしています。当然、自分よりも強い者には逆らえません。加害者がまだ子供であるなら、大人の圧力で言うことをきかせられる部分もあります。退学、解雇、強制退会などと天秤にかけて、いじめ行為を止める人もいるでしょう。
但し上の立場にいる者が、積極的に解決に向けて協力してくれるとは限りません。加害者の外面が良く、信じてくれない。被害者に我慢をしてもらって、波風が立つのを避けようとする。といった対応も考えられます。
また相談した事実が加害者に漏らされ、自分までもが標的にされるリスクもあります。上手く加害者のいじめ行為を止めさせられても、今度は逆恨みもあります。
警察沙汰にまでなれば、問題を大事(おおごと)にした人物として煙たがられる、糾弾されるかもしれません。
どのような形であれ、戦いになれば相応の危険性があります。こじれて泥沼化するようなら、逃亡の方が安全です。
集団内での自浄は、あくまでも理想
本来であれば、集団内の自浄作用で、いじめ問題を解決させるのが理想です。傍観していた多数が立ち上がり、いじめを許さない強い姿勢を見せるなら、加害者は屈するしかありません。
いじめ行為の大前提は、力関係での優位性です。相対的に自分が劣勢になれば、続けられる道理はありません。
しかしこれは、あくまでも理想です。そもそもとして、いじめが常態化するのは、そのような気風が集団にないからです。一人一人で悪い人でなくても、既に消極的な加害者に堕している、我が身の安全を優先させる事なかれ主義、の人たちが、いきなり心を入れ替えるのは望み薄です。
やはり「腐った集団からは、戦わずに抜ける」のが、初めに考慮すべき選択肢です。集団内で影響力を持たない傍観者にやれることは、限られています。その限られた中でできる、少しでも有益な選択をしましょう。
まとめ
粗末に扱われているのを見ると、人はそれを「価値のないもの」と認識します。そして自分も、同じように粗末に扱うようになります。いじめの被害者は、粗末に扱われているものに該当し、自然と「価値のない存在」として刷り込まれます。
そこに可哀想、悲惨、罪悪感、自己嫌悪などの衝撃や苦痛があると、区別する能力、理性が弱まります。これが刷り込みを、より強固にします。
傍観者はやがて、いじめ行為の魅力に引きずられ、あるいは保身のために、加害者の側に立ち始めます。いじめ行為に参加する積極的な加害者もいれば、価値が低い、嫌い、という態度だけを見せる消極的な加害者もいます。
いじめが常態化するのは、多くの消極的な加害者が、その状況を支持して許容するからです。
いじめ問題を解決するのに、傍観者の立場で出来ることは限られています。そもそも傍観者は、集団内で影響力に弱いからこそ、傍観者になっているのですから。もしも傍観者の立場で正気が残されているなら、集団からの逃亡を優先的に考えて、被害者を助けてあげましょう。
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