「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。現在の日本社会は、混沌としています。社会規範が薄まり、良い意味でも悪い意味でも自由です。その結果、従来は抑え込まれていたワガママで自己主張の強い層が、幅を利かせる社会にもなっています。
日本社会の秩序を、どう取っていくのか? というお話です。
タップ、クリックできる【目次】
法と社会規範による社会秩序
法治国家による基準
法治国家とは、法律に基づいて運営される国家です。法律の範囲内で、国民(在留の外国人も含む)の自由は保証されています。法律に違反しない限り、どのような自由も制限されません。罪にも、問われません。
この基盤は、社会秩序の土台です。
倫理、道徳、マナーによる基準(社会規範)
倫理、道徳、マナーも、社会秩序を作り上げる重要な土台です。もしもこれらがなく、法律だけが秩序であったなら、社会は決して住みよくはありません。
僕も先日、殺害をほのめかすような脅迫を受けました。しかし明確に殺すとは言わず、「あなたに殺意がありますが、それだけでは犯罪ではないですよね。サイン会や講演会があれば、絶対に行きます」といった内容でした。
警察に相談したところ、「これ単独では、刑事事件として扱うのは難しい」とのことでした。回数が増えるなどすれば、また話は違うそうですが、法治国家としての限界も感じさせる出来事でした。
幸い、僕が受けた殺害予告(みたいなもの)はこの一件だけですが、もしもこのような行為を行う人が増えたなら、社会はどうなるでしょうか?
法治国家としてのシステムでは裁けない、止められない、その隙をついて反社会的な言動をして憚(はばか)らない人で溢れてしまうのは、恐怖でしかありません。
法律と社会規範のバランス
社会規範で秩序が保たれているなら、法律によって制限する必要はありません。
歩き煙草が各地の条例で規制されましたが、もしも歩き煙草が問題になった時に、自主的に喫煙者たちがそれを控えたなら、条例は制定されなかったでしょう。
歩き煙草に限らず、社会規範を無視して好き勝手にやる人が増えれば増えるほど、法律で縛らなければいけなくなります。
法律と社会規範とのバランスは、可能な限り社会規範によって自主的に秩序が保たれている方が好ましいです。
日本には「他人様」という神様がいる
日本社会は、世界から見てやや特殊です。他人からどう見られるのか、どう思われるのか、を過剰に気にする精神文化です。
他人様に笑われないように、迷惑をかけないように、恥ずかしくないように、とあらゆる場面で気を使います。日本には「他人様」という絶対不可侵な神様がいるのです。
崩れる社会規範と未来について
常識に頼り過ぎたツケ
日本の社会規範は、絶対神である「他人様」が与えてくださる規範に、忠実に従うことで成立してきました。その規範の名前は、「常識」と言います。
どう振る舞うべきか、どうするべきか、どう思うべきか、そういった心にまで踏み込んだ常識が、不可侵な聖典のように君臨してきました。
常識に反する人間は、批判され、否定され、排除され続けてきました。するとやがて国民は、楽をすることを覚えました。他人をコントロールするのに、自分で作った言葉はいらない。ただ一言、「そんなの常識だろ」と突き放せば良い、と。
しかし常識も、決して万能ではありません。状況が変われば、合理性も変わります。それに合わせて常識が変化するのには、相応の時間がかかります。
現在は読み易さから、大学のレポートや論文は、ワープロで作成します。ワープロじゃないと、受け付けてくれない先生も多くいます。しかしワープロが普及し始めた頃は、その使用が禁止されていました。手書きでないと、提出できなかったのです。
他人のデータをコピーするのが容易であるとか、当時はそれらしい理由もあったのでしょう。しかし現状から逆算して考えると、どれも大した理由ではありません。あえて言うなら、レポートや論文は、手書きで提出するのが常識だったからです。
目上の人の言うことは絶対で、服従しなければならない。これも日本の中では、常識でした。嫌いであっても、飲み会の一杯目はビールを頼む。これも会社の常識でした。
社会規範を、あまりに常識に頼り過ぎてしまった結果、その窮屈さに辟易とする人たちも現れます。個々の事情を考慮しようとせず、柔軟に合理性を考えようとせず、ただ常識だからと雑に押し付けられる社会の在り方に、多くの人が疑問を持ち始めました。
多様性が暴走する
常識への反旗は、新人類世代が社会を賑わせた頃から顕著になりました。新人類世代は、1973年生まれの僕よりも、5~10歳くらい上の世代という印象です。
当時、新入社員であった彼らが、上司に絶対服従をしない。上司が会社帰りに飲みに誘っても、自分の自由時間を優先して断る。このような価値観を理解し難く、新人類という名称が付けられたというわけです。
関係ないですが、ファミコンゲームにも新人類ってありましたね。原始人みたいな人が弾を撃って敵を倒す、縦スクロール型シューティングゲームです。ただ流行に乗っかっただけで、社会現象になった新人類要素はゼロです。ごめんなさい、本当に余計な話でした。
以降、聖典「常識」の廃棄活動は、一層の盛り上がりを見せます。そのピークに入ったのは、1990年代の援助交際の全盛期です。旧来の性モラルは完全に破壊され、殺人すら否定しきれなくなった時代です。
援助交際は、売春に取って代わった呼び名ですが、そこに罪悪感はありませんでした。互いに了承した上で、性交を楽しめる、お金がもらえる、何が悪いの? という感覚です。人殺しでさえも、法律以外の根拠で、なぜ悪いのか? という問いに社会が解答に窮していました。
常識に頼って楽をしてきたので、「常識なんて関係ない」という姿勢で来られると、対応しようがなかったのです。常識で抑えが利かなくなったところに、多様性が暴走している構図です。
そして今、日本社会は多様性の洪水で溺れているような状況です。文句を言う人、クレーマーが幅を利かせています。以前であれば「そんなの、常識だろ」で抑え込めていた人たちが、声を高々にして自己主張を通しています。
公園の近所に住む人が、日中に遊ぶ子供の声がうるさいと苦情を入れて、その苦情が通ってしまうような社会です。新しく楽しいピョコピョコと飛び出す噴水が、子供達に大ウケ。しかし苦情を受けて、つまらない盛り上がらないように改善(?)したとの事です。
社会規範を取り直す動き
法律さえ守っていれば、あとは自由だ。日本を、こんな社会にしてはいけません。
僕らは今一度、馬鹿にして捨ててしまった常識という聖典を、聖典とは違う形で取り戻さなければなりません。
何が正しく、何が間違っているのか、を根本から考え直し、自ら選択したくなる新しい常識を作り上げていかなければなりません。
そう考えていた時、あるツイートが目に留まりました。非常に優れた観点から表現されており、ぜひ皆さんにシェアいたします。
共同体として排除すべきライン、とありますが、これは言い換えれば、共同体の一員として求められる社会規範のラインです。
犯罪者として処罰されるラインより上の、どこに社会規範のラインを置くべきか? どこに常識を置いて、その常識にどれ位の権威を持たせるべきか? どうすれば社会全体の秩序が保たれ、個人個人の幸福が最大化されるのか? これを模索する上で、一つの枠組みを与える観点だと考えます。
時代遅れの、壊すべき常識もある
とは言うものの、限定された空間では、未だに不合理な常識がまかり通っています。
飲みの席では、女性が酒を注ぐもの。先輩や上司が残業をしていたら、帰れない。よほどの事情がない限り、有給休暇は取れない。女性は子供を産むから、価値がある。など、一企業、一地域、一家庭では、まだまだです。
新しい常識を再構築していく際、こういったものも一緒に塗り替えていく展開が理想です。
そのためには、一人一人が自分の頭で考えて、意見交換と議論で成熟化させ、情報発信を繰り返していくしかありません。
まとめ
他人様という絶対不可侵の神、常識という聖典に頼り切って楽をしてきた結果、日本は多様性が暴走する社会になってしまいました。
改めて一人一人が自分の頭で考え、意見交換と議論で成熟化させて、常識を相応しい地位に据えなければなりません。
Youtube、記事動画
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この記事の内容を元に、雑談を交えたフリートークです。台本なしのワンテイクです。
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