「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。近ごろ、精神的に弱く脆い個人が目立つように思えます。
旧態依然の日本社会では、男も女も、極端に精神的な強さを求められました。戦後の貧しい時代では、生き抜くためには、強さが前提条件だったからです。
しかし豊かになって、ゆとりが出てくると、弱くても生きていけるようになります。そこで一斉に、根性論への反撃が始まりました。
「弱くても良いんだよ……」という甘いささやきが、人をダメにしているのでは? というお話です。
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男は気合と根性! という価値観
精神文化の過度期では、極端 → 極端に振れる
精神文化の移り変わりは、一度、極端に振れると、逆方向の極端に振れてしまう傾向があります。
日本は元々、根性論が大きく幅を利かせていた社会でした。根性論のデメリットに焦点が当てられ、そこからの脱却が大きなテーマになりました。
加えて、多様性の尊重という概念も注目されています。弱さ、繊細さも尊重すべき多様性の範囲であり、「強くなれ」という声は、不当な圧力として扱われるようにさえなりました。
気合の入らない人、根性のない人も、そのままの姿で良いという価値観も、一定の勢力として定着しつつあります。
男は気合と根性を注入された
僕が子供の頃、30年以上も前は、父親からの体罰は当たり前でした。
厳しく育てる = 体罰を使う
くらいの意識がありました。きちんとした人間に男を成長させるには、体罰は必須であるとまで信じられていた時代です。
昔は男尊女卑が強く、男性にとって女性は、守るべき対象です。ビジネス現場で戦うのは男性の仕事で、女性は気楽に家庭を守っていれば良いと考えられていました。
男は社会の幹部候補のようなもので、その分、スペックの高さが要求されていました。男は気合と根性! 精神論が大きな幅を利かせる中、そう多くの人達で共有されていました。
気合と根性は、男性性の特徴
根性論は行き過ぎれば、不合理な部分も目立ってきます。体育会系のノリも次第に毛嫌いされ、今では馬鹿にされるような風潮も出てきました。
気合! 根性! という熱血は、すっかり勢力を落としました。それよりも、優しさや協調性の方に、教育の重点も置かれるようになりました。男性性・女性性で言えば、これらは女性性の特性です。
気合と根性は男性性の側で、強さを伴います。社会は男性性をきちんと育てないと、どうしても傾向として、人間の心は弱くなります。
人の精神には、男性であっても女性性があり、女性であっても男性性があります。一般に、男性は男性性に勝り、女性は女性性に勝ります。
人は誰しも同じ心の中に、攻撃性、保守性、厳しさ、優しさといった異なる要素を併せ持っています。その勢力バランスの違いで、人間性に多様性が生まれます。
その中で男性性の成長が阻害されれば、精神的に弱く脆い個人が増えてきて当たり前です。社会は個人に、もっと強さを求めた方が良いんです。気合と根性は、見直されるべきです。
気合と根性で、英才教育を受けていた子供時代
僕は父から日常的に体罰を受け続けながら、ただひたすら、気合と根性だけを叩きこまれてきました。その体罰を肯定はしませんが、だから僕の精神力は強いです。
いつも気合が入った状態で、一般的にはかなりの苦境に立たされても、決して心を折られませんでした。僕は雰囲気からは、苦労を知らないように見えますが、普通の感覚からは結構な修羅場を経験してきています。そう見えないのは、僕はそれを苦労だと感じていないからです。
ただ父は、特別に怖い人です。元、カリスマ的な不良です。学校で集会中に、生徒が私語で盛り上がって収拾がつかない。いくら先生が注意して怒鳴っても、まったく無駄。といった状況でも、父が片手を上げて静止する動作をすれば、ピタリと静まり返ったそうです。
不良と言えば喧嘩ですが、父はバイクに乗って、釘バットを片手に暴れていたそうです。バイクで根性勝負をするチキンランは、普通は海に向かって行うような我慢くらべですが、父はそれを、向かってくる電車を相手にやっていました。無敗だそうです。
よく「泣く子も黙るほど」と怖さを形容しますが、父が怒ると、本当に泣く子が黙ります……。
そういう父に、物心ついた時から、ほぼ毎日のように叩かれ続けてきた小学生時代。ただひたすら、気合と根性を植え付けられました。
当時は父と自分は人種がそもそも違う。父のようにはなれない。教育し甲斐のない息子で申し訳ない…… と思っていたのですが、気付けば、その努力はしっかりと僕の精神に根を張っていました。
えっと、だからと言って、僕は決して怖くないですよ。僕は男性陣の中では、女性性が強い方なんです。
弱さ、繊細さの相応しい場所とは
弱さ、繊細さは否定され、排除されるべきなのか?
人にはそれぞれ、個性があります。生まれつき、強い人は強いし、弱い人は弱い。弱い人が強くなろうにも、限界がある。
ですから弱さは、その人格を否定する根拠にはなりません。こんな人物は要らないと、社会から排除すべきという話も違います。
人間個人にとって、社会は生存を有利にするためのシステムです。言い方を変えれば、道具です。強い人も弱い人も、同じように社会の一員です。強い人はその強さを発揮すれば良いし、弱い人は弱い人で、他の何かを発揮すれば良い。
しかし、弱さは個性ではありますが、弱点は弱点です。弱点は許容されるものであって、積極的に称賛や推奨をされる部分ではありません。
「弱くても良いんだよ」というニュアンスの言葉には、大きな語弊があります。「強い方が良いに決まっているけれど、結果として弱くても、否定しないよ」が正しいです。
まとめ
日本社会は、行き過ぎた根性論の揺り戻しに、多様性を尊重するという概念が加わっています。精神的な弱さは否定されなくなり、「強くあれ」が、個性や多様性を否定する不当な圧力にさえなっています。
しかし気合や根性といった根性論には、その良い部分があります。全てを丸ごと否定すべきではありません。
また精神の弱さは、単純に弱点です。結果としての弱点は許容しても、「強くあれ」を否定するのは違います。
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