「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。まともな人には信じ難い存在なのですが、世の中には、「嫌いというだけで、ヒドイことをしても構わない」と考えている人達がいます。犯罪者として服役するでもなく、普通に社会の一員として溶け込んでいます。
彼らの心の中で、何が起こっているのでしょうか? そして彼らとは、どう付き合えば良いのでしょうか?
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ただ「嫌い」だけで、ヒドイことをしても構わない
嫌い → 加害しても良い という思考回路
まともな人間であれば、理解し難い思考回路です。ここから、いじめや虐待、パワハラなどが起こります。これらが悪しき行為であるのは、誰もが承知をしています。小学校低学年くらいまでの知能の発達で、ほとんどの人が理解に至ります。
しかし現実には、学校、友達グループ、職場、家庭、地域社会などで、好ましくないはずの行為が当たり前に見られます。小学生でも把握しているような基本的な善悪さえ、わきまえられない大勢の人達がいます。
彼らの多くは、社会的には普通の一般市民です。身勝手な欲求や欲望に任せて窃盗、性犯罪、暴力事件などを起こさず、普通に暮らしています。少なくとも、警察に逮捕されないくらいの知能と理性は持ち合わせています。
このような普通の人達が、「嫌い → 加害しても良い」という思考回路、ルールで動いているのですから、何とも恐ろしい社会であり、種族です。彼らは狡猾に、社会的に破滅をしない範囲内で、誰かを攻撃します。
「嫌い」というスイッチが入ると、狂人になる
嫌いなものを疎ましく思うのは、誰であっても同じです。疎ましければ、攻撃したくなるのも当然です。しかし大抵の人は、正当性の範囲でしか攻撃をしません。正当防衛、やられた分の仕返し、といった根拠を必要とするのです。ただ嫌いというだけでの加害は、理性が許しません。
けれども、あまりに強い嫌悪感は、理性を曇らせます。まともな思考、判断ができなくなり、衝動への抑えが利かなくなります。社会で日常生活を大きな問題なく送れるレベルの知性と理性の持ち主が、部分的に狂人になります。
これは、いじめ、虐待、パワハラなどを行わない人であっても同様です。どんな人であっても、強い嫌悪感は、その人を部分的に狂わせるのです。実際に何らかの行動に移すか否かは、狂った自分と、正常な自分との兼ね合いで決まります。
理性と狂気とが、せめぎ合う
部分的な狂気と正常に働く理性とがせめぎ合い、何らかの結論が下されます。その人の行動は、最終的には、この結論に基づいています。
理性が圧倒的に優位であるなら、狂気に一切の妥協をしません。ただ嫌いというだけでの攻撃に、一切の許可が下りません。感情はともかく、一定の公平性も保たれます。ただ何らかの正当性があった時に、嫌いという感情のせいで、やや攻撃性が背中を押されて強まるくらいの影響は起こり得ます。
やや狂気に理性が押されたなら、軽く攻撃性が表面化します。態度の悪さ、当たりのキツさ、不公平さが垣間見えるものの、あからさまな行動には至りません。ちょっと感じが悪いくらいなら良いだろう、仲間はずれにするくらいなら良いだろうと、理性が狂気に若干の妥協をしている姿です。
狂気によって理性が大きく支配されたなら、もはや攻撃衝動は野放しとなります。善悪を区別する理性は、大幅に攻防ラインを下げます。攻防ラインを下げるとは、例えば、「後遺症が出るようなケガをさせたらいけない」とか、「殺すまではしない」といったことです。
一方、自分を守るため、損得勘定の理性は正常に働きます。他人の目がある所ではしない、逮捕される・裁判を起こされるラインは踏み越えない、などの分別はつきます。ただごく少数の割合ではありますが、ここを超えてしまう人も現れます。
集団内での力関係で上にある、匿名で自分の正体がバレない、といった環境が整えば、悪質ないじめ、虐待、誹謗中傷といったレベルで攻撃性が解放されます。
理性が、狂気を後押しする
人は、自分が悪である事実に耐えられません。どんな悪人であっても、何かしらの自己正当化が必要です。自己正当化には、積極的にそれを正しいとするものと、仕方がないと許容するものとがあります。
正当化は、理性が行う狂気へのお墨付きです。いじめや虐待が事件になった時に、犯人の言い分も報道されます。そこで「教育のつもりだった」、「いじって、かわいがっているだけだった」といった供述が出てきますが、これは単なる言い逃れとは限りません。自分自身、本当にそう思って正当化しているのです。
また対象に非があれば、攻撃性は正義の鉄槌という大義名分を手に入れます。価値観の違う相手への誹謗中傷、不祥事を起こしたタレントへの苛烈なバッシングなどは、ネット上でも頻繁に発生しています。
こうした正当化の中には、極めてシンプルに「だって嫌いなんだから、仕方がない」も目立ちます。人格者、良い人間であろうとする意志を放棄して、狂気と共に生きて行く選択をしています。
狂人との付き合い方
損得勘定の理性に訴える
日常生活を普通に送れるレベルの人間であれば、とりあえず話は通じます。ただ狂人を相手に、理性的な善良さは期待してはいけません。
彼らに通じるのは、損得勘定の理性です。学校や会社を辞めさせられたくない、逮捕されたくない、といった部分であれば、高度に機能しています。もしもここが狂っているなら、逮捕されるなり、社会的地位を失うなりして、人生を破滅させています。
損得勘定には、「自分の身が安全である」も含まれます。ですから彼らは、自分よりも強い者、仕返しをしてくる者には、表立って手を出しません。「こいつは弱気で、自分には逆らわない」と思われたら最後、嫌われてしまえば、恰好の的にされます。嫌われていなくても、憂さ晴らしの道具にされる恐れもあります。
社会が良い人だけで占められている訳はないので、多少のことであれば、我慢も必要でしょう。やや狂気に理性が押されている程度なら、事を荒げずにいる利益を優先させた方が良い場合もあります。
しかしこれが、狂気によって理性が大きく支配された相手であるなら、事態は深刻になります。力関係で勝つか、追い出すか、逃げ出すか、のどれかを選ぶしかありません。
ただ未然に攻撃対象にされないなら、それに越したことはありません。彼らは、弱い者を虐げる経験知を積んでいます。攻撃して安全な人、危険な人を、敏感に嗅ぎ分けます。
ですから逆に、その優れた嗅覚を利用するのです。被害に遭う前に、「理不尽に対しては断固として戦う」と、意志を固めます。それを直接、宣言する必要はありません。雰囲気、態度、言葉の端々に、否が応でも滲み出るようになり、彼らは危険を察知します。彼らにとって、自分を危険な存在にして、標的としてロックオンさせないのです。思うだけですが、これは驚くほどに効果を発揮します。この場合の「断固として戦う」には、力のある第三者や機関に助けを求めるのも含まれます。
まとめ
自分が嫌いというだけで、ヒドイことをしても構わないと考えている人たちは、部分的に善悪の理性が狂っています。狂気が理性を支配する度合いによって、思考と行動が変わります。
このような狂人を相手にするには、損得勘定の理性に働きかけるしかありません。
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