「軽やかに♪ 心click」管理人、小池義孝です。他人と比べて、劣っている自分に傷つく。優れた人間が妬ましい。こうした思いは、昔も今も変わらない、多くの人にとっての悩みです。自分で考えて作った比較の檻で、自分を傷つけてしまいます。
今回の記事は、そもそも人は何故、自分と他人とを比べるのか? の真相を紐解き、その苦痛から解放される道筋を示します。
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人はなぜ、自分と他人とを比べるのか?
他人と比べることから、人は逃れられない
「自分と他人とを、比べてはいけない」といった趣旨のフレーズは、あまりに有り触れています。自己啓発セミナーに参加するでもなく、誰かに人生相談をするでもなく、普通に生きているだけで、何度も遭遇する程のボリュームです。
それだけ人間は、自分と他人とを比べて、わざわざ苦しみを選択しているのだと伺い知れます。
SMAPの『世界に一つだけの花』は2003年にリリース。大ヒットして、社会現象になりました。大勢の人が、比較からの解放を願っていたからです。
しかし大ヒットから5年、10年、15年と経過して現在、社会は何も変わっていないように思えます。一時的に解放された気分はもたらしたものの、社会の価値観が、大きく変化した様子はありません。他人と比べることから、人は逃れられないのです。
他人と比べれば、多くの敗者を生み出す
優劣は、比較によって生み出されます。優れているものの数だけ、劣っているものがあります。
何事においても、大多数の人は凡庸です。一部の極端に優れている者、劣っている者を除いた大勢が、普通の人として存在しています。見上げれば、一部の極端に優れた者が君臨し、自分は劣っていると認識させられます。極論を言えば、頂点はたった一人、二番目以降は全員が敗者です。
つまり見上げて他人と比べたなら、多くの敗者を生み出してしまうのです。
人はなぜ、自分と他人とを比べるのか?
それでは、そもそも人は何故、自分と他人とを比べるのでしょうか? 理由は、大きく分けて二つです。
・人が物事を捉えるには、座標が要る
・自分の序列は、死活問題
人が物事を捉えるには、基準が必要です。例えば、「Aさんは優しい」と評価する時には、多くの人の優しさを知っておかなければなりません。他の多くの人に比べて、優しさが強いと判断するからこそ、「Aさんは優しい」と結論づけられます。
比較して、どこに位置するのか? 座標の位置をもって、その対象を把握しているという訳です。自分という存在を判断するのに、他人と比べるのは当たり前です。
また、自分の序列への強い関心があります。群れの中でどの序列にあるのかは、生き物にとって死活問題です。その感覚を生まれ持っているからこそ、自分の立ち位置が気になります。
比較して、相対的に捉える + 自分の序列が気になる
が人間の普遍的な性質なのですから、自分と他人とを比べるなというのは無理難題です。
他人と比べる苦しみから、どう逃れるのか?
他人と比べるのが人の避けられない性であるなら、抗うだけ無駄なのでしょうか。その苦しみから解放される日は、永遠に訪れないのでしょうか。
いえ、だからと言って、必ずしも苦痛はセットではありません。
他人と比べないのは、無理
よく「他人と比べてはいけない」と言われますが、これが出来たなら、誰も苦労はしません。自分の序列が気になる以上、比べるなは無理です。
あの『世界に一つだけの花』も、実は比較の檻から完全には抜け出していません。「一つ一つ違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」の部分が解決策ですが、その花を咲かせている人、咲かせていない人との間で、優劣が生じています。
この道に進んだら進んだで、「他の人と比べて、自分は自分だけの花を咲かせているのだろうか?」と気になります。そして咲かせた花同士でも、必ず優劣を認識します。
他の重要な項目で、生存に有利になる
より本質に掘り下げていきます。序列が気になるのは、感覚的な生存の有利・不利があるからです。劣等と敗北が苦痛になるのは、感覚的に死に近づくからです。
能力、ステータス、外見、資産、学歴などは、確かに使い様によって、生存をより有利にします。これらの項目は、自身の優位を誇示するマウンティングにも、頻繁に利用されています。
このような序列で上位になれないのであれば、無理に競う必要はありません。他の項目で生存に有利な状況が整うなら、劣等と敗北の苦痛は薄まります。苦痛は苦痛ですが、死活問題から遠ざかる分、ゆとりが生まれます。
例えば貴方は、優しく、真面目で、責任感の強い人をどう思いますか? 特別に秀でた部分はない、能力的にはごく普通の人です。劣ったダメな人間と、見下すでしょうか? それとも、ちゃんとした人間だと好感を持つでしょうか? おそらく殆どの方の評価は、後者になるはずです。
このような人物であれば、安心して仕事を任せられます。結婚相手としても、十分に評価できます。つまり、社会に多くの居場所が用意されています。これは相当、生存に有利な状況ですよね?
一部の特別に優れた人間になろうとせず、そうなれないと肩を落とさず、普通にちゃんとした人間にさえなれば、社会はその人を歓迎します。特別ではないけれど、社会から必要とされる自分、頼られる自分、信頼される自分というポジションが確立したなら、生存の危機感も薄れます。
で、それって結局、「自分の花を咲かせれば良い」という事になります。その上で、他人を羨ましがったり、妬んでみたり、人間らしく生きて行けば良いのです。
まとめ
自分と他人とを比較するのは、人の普遍的な性なので変えられない。他人と比べた優劣で苦しむのは、そこに感覚的な生存の有利不利があるから。
しかし優しい、真面目、責任感があるという人物像であれば、心掛け一つで近づける。このような人物は、当然、社会から歓迎される。必要とされる人間というポジションになれば、優劣の差は、さほど苦しみを生み出さなくなる。
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