今回は尊重の本質と、それが人間としての成長に繋がる構造をお伝えします。
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尊重とは何か?
辞書通りに言えば、「尊いものとして重んじる」です。もう少しくだくと、「価値のある大切なものと思う」です。
他人を尊重する、他人の価値観を尊重する、人権を尊重する、マイノリティーを尊重する、など、尊重という概念と言葉は、人のあるべき姿として重要な位置づけです。
尊重とは何か? を知れば、どうすれば尊重できるのか、が見えてきます。
前提にある否定
わざわざ尊重という言葉を使うからには、前提には必ず何らかの否定があります。
例えばキリスト教を信じている人であれば、「イエスを尊重する」とは言いません。尊い重要なもので、当たり前だからです。「他人を尊重する」に比べて、「自分を尊重する」もあまり聞きません。多くの人にとって、自分が大切で価値があるのは当たり前だからです。
ですから「尊重する」ためには、まずはその対象への否定が必要なのです。
尊重には難易度がある
否定と言っても、その内容は様々です。否定の内容によって、尊重の難易度が変わります。難易度の高い順に、上から並べてみます。
悪
醜い、カッコ悪い
嫌い
取るに足らない、下らない、重要ではない
これらに何か例を当て嵌めて、尊重してみてください。悪であれば、「放火」「強盗」など、いくらでも出てくると思います。醜い、カッコ悪いであれば、「外見や挙動が気持ち悪いおたく」あたりが、イメージしやすいかと思います。
如何でしょうか。上に行くほどに、尊重が難しくなっていくのがお解りでしょうか。
妥協は尊重ではない
ほとんどの人たちが、妥協を尊重とはき違えています。あまりに安易に、尊重という言葉が乱発されています。
まったく価値があるとも重要とも思っていないのに、「あなたの価値観は尊重します」と言ったところで、中身が伴っていません。夫婦間での価値観の不一致は、互いに尊重されるべきものです。しかしその実態は、単に諦めて放っておいているだけです。
これらは「戦わない」「潰さない」という意思決定で、外見的には尊重と似ています。しかし正体は、単なる妥協です。妥協と尊重とは、根っこがまったく異なります。
尊重を広げれば、人として成長できる
心の素直な反応に逆らうもの
尊重をするには、まず否定がなければなりません。つまり尊重は、心の反応に逆らって行うものなのです。
ここを突き詰めると、尊重とは、「心の反射的な否定を、理性が価値あるものに書き換える行為」と表現できます。
カッコ悪いから、嫌いだから、下らないから否定して馬鹿にする。尊重は、これらの対極にあります。
ハードルの低い尊重
「取るに足らない、下らない、重要ではない」への尊重は、多くの人にとってクリアできるハードルです。
ただし自分を肯定するために否定に依存している人にとっては、困難でしょう。
例えば僕の感覚ですと、アイドルの熱心なファン活動は下らないと思ってしまいます。しかし僕は僕で、中田英寿の大ファンだった時期があり、そのためにスカパーに加入して欠かさずペルージャの試合を観戦していました。これもある人からすれば、下らないものです。
皆それぞれ、何が好きか、何に惹かれるかは違って当たり前です。もしも自分だけでなく、他人の人生や幸福も重要だと考えるなら、それを価値ある大切なものと位置付けられるはずです。
自分にとって下らないものだからと、わざわざ馬鹿にする必要はありません。こうした尊重であれば、難しくはありません。
嫌いへの尊重
対象が「嫌い」になると、明らかにハードルが上がります。
誰でも、大抵は嫌いな人がいます。トラブルがあった、生理的に受け付けない、など嫌いの背景は様々です。
嫌いな人を、価値ある大切な存在と思うのは、なかなかに難しいでしょう。嫌いな人に対しては、査定も厳しくなりがちです。マイナスに解釈して、好ましくない人間に仕立てあげます。嫌う気持ちは、否定したい衝動に繋がります。
ただ自分が嫌いだからと言って、その人の全てが嫌なヤツではありません。自分が知らない一面だって、必ずあります。自分だって、誰かには嫌われています。万人に好かれるような人であっても、そういうタイプを嫌う人もいます。
好き嫌いと、その人の価値とは、まったく別の話です。これをわきまえておけば、嫌いな人にも一定の尊重を持てます。
醜い、カッコ悪いは、どうしても嫌だ
醜い、カッコ悪いと思うものを、嫌うなというのは無理難題です。
ですから、嫌いなままで構いません。醜くてもカッコ悪くても、悪でなければ実害はありません。そこにいて、そこにあって良いものです。嫌いなまま、存在するのを許容しましょう。
悪をどう位置付けるのか?
問題は、この「悪」です。
世の中には我が子を虐待して、「自分の子供なんだから、どうしようと自分の自由だ」と主張するような人もいます。
明らかに悪と位置付けられるものまで、尊重すべきなのでしょうか? 他人の価値観を尊重するというのを至上命題にして、他の全てに優越させるなら、尊重せざるを得ません。
しかし人には、これは絶対に正しくない! という普遍的な感覚があります。普遍的な感覚から疑いようのない悪を尊重する余地は、人の心にはありません。
問題になるのは、善悪が入り組んだ複雑なケースです。沖縄の米軍基地問題での争いを例に、少しご説明します。沖縄県民の多くは、県内に米軍基地が集中するのを不公平だと位置づけています。この不公平さを是正するのは善であり、放置や負担増は悪です。一方、それを国防上、必要な偏りだとする立場もあります。国防上の安全は、公平さより優先されます。立場の違いで、善と悪とが入れ替わります。
それぞれの主張に、一理があります。ですから相手の立場を尊重して、歩み寄る道もあります。「国防上の問題をクリアしながら、負担を軽減するにはどうすれば良いのか?」という発想で、議論が進んでいくはずです。
しかし現実には、互いに相手を敵対視して、批判し合っている状況が続いています。
尊重は人の器を広げる
下らないものを受け入れる、嫌いなものを受け入れる、悪であってもそこに立場の違う善があるなら受け入れる、こうしたステップは、人の器を広げます。
妥協ではなく、尊重できる領域が広がれば広がるほど、人としての成長に繋がります。
まとめ
自分にとって、下らないものなら、下らないままで良い。嫌いだったら、嫌いなままで良い。重要だ、好きだ、と変わったなら、もうそれは尊重ではありません。
尊重とは常に、否定を、変わらず否定したままで、乗り越えた先にあります。
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